ゆったりと流れる大堰川を遡り、たどり着く。
幽玄という言葉の持つ神秘性は、
京都の奥深さをどうにか捉えようとしたものか。
霞の中に浮かぶ新緑、あるいは紅葉の赤、黄、雪の白。
季節に染められていく、たおやかな時間。
舟に乗って川をのぼるという行為は、遠い記憶を呼び起こすようだった。川はかつて山の糧を運び、人が移動するための道であったことに想いを馳せる。カワセミたちが川を道として通り抜けていくのが見えた。星のや京都へと向かう間に、川上から川下へと吹く心地よい風にさらされて、身体が浄化されていく。舟の上は、いつの季節も地上より少し涼しい。到着までのわずか15分が、いつもよりも濃密に感じられた。
目に入るのは、山だけだった。ただし、それは原始のものではなく、人の手によって植えられたのだという。森への入り口として、人の息遣いのする自然がある。川沿いの星のや京都は、景観保護区の中に作られている。その日本庭園の美しさは、人工と自然の境界にあるのだろう。大堰川さえも、角倉了以という江戸時代の豪商によって治水されたものであるという。人の美意識を映した自然。掃き清められた通路には、道先案内するようにツツジの花がポツポツと残されていた。
静けさは、音によって感じられるものだと、水が流れる音で気づいた。部屋の脇を流れる沢の音と大堰川の音がそれぞれ違う。沢の音は少し高く、川の音は少し低い。水の流れに耳を澄ますうち、遠くの森で母鹿が仔鹿を呼ぶ声が聞こえた。夕方には一斉に虫が鳴き出して、夜には蛙の声がする。朝は、鳥の時間だ。生き物たちの声が、庭を覆う苔に吸い込まれていくよう。水の流れる音に高低差があるなんて、星のや京都を訪れるまで知らなかった。
時の重なりを感じさせる数寄屋造風の部屋には、今ではもう手に入らない“材”が使われている。京都の職人の「洗い」の技術によって磨かれ現代によみがえった、欄干や木の扉。時の流れがそこに堆積しているから、時間を留めることができるのか。唐紙の文様が光の差す角度によって輝く部屋の中は、静けさを湛えた空気に満たされていた。新しい畳の香りによって感じる、軽やかさ。窓から覗きこめば、川を泳ぐ鮎の姿まで見えた。
額縁のような窓によって切り取られるのは、桜やもみじの古木の先端。庭師がどれほど綿密に10年先を計算しても、その野生の動きを測ることはできない。野生に宿る、無作為の美しさ。葉のついた桜の枝が、夏の渡り鳥・ノビタキが止まって大きく揺れた。この視線の高さは、鳥や虫たちの目線であることに気づく。季節がめぐるたび、また違う鳥が渡る。額縁の中の自然は常に動いていて、一瞬も止まることはない。
早朝、目を覚まして路地を歩く。日出とともに朝もやがゆっくりと上がっていき、朝露に濡れた石畳に光が差し込む。敷地の奥にある自然を模した枯山水の庭も、水を張ったよう。樹齢400年の大きなもみじが見下ろしている。その隣に植えられた利休梅が、もみじの新緑へと少しずつ季節をつないでいく。朝の光に照らされた緑の葉も、秋には真っ赤に染められる。少しずつ渡されて、途切れることのない季節。おそらくは100年先も、朝の光は変わらない。